第十二章だいじゅうにしょう 明治後期めいじこうき

第一節だいいっせつ 西洋文化せいようぶんか伝統文化でんとうぶんかとのあいだ

(一)国民主義こくみんしゅぎ国粋保存こくすいほぞん

 文明開化ぶんめいかいか方法ほうほうとして欧化政策おうかせいさくられたが、あまりにも急進的きゅうしんてきだったため、西洋文化せいようぶんか受容じゅよう上辺うわべだけのものになりがちであった。とく富国強兵ふこくきょうへい最大さいだい目的もくてきとした明治政府めいじせいふ政策せいさくは、かならずしも国民こくみん生活せいかつざしたものではなく、民間みんかん批判ひはんまねいた。また、当初とうしょくに独立どくりつをもたらすために西洋文明せいようぶんめい摂取せっしゅちかられてきたが、その過程かてい日本固有にほんこゆうのものがうしなわれてしまうと危惧きぐするこえがった。このような危機感ききかん背景はいけいに、国民こくみん政治せいじへの参与さんよもとめる国民主義こくみんしゅぎ国粋保存こくすいほぞん運動うんどう台頭たいとうした。

徳富蘇峰とくとみそほう三宅雪嶺みやけせつれい陸羯南くがかつなん 1887(明治めいじ20)年、徳富蘇峰とくとみそほう民友社みんゆうしゃ設立せつりつし、雑誌ざっし国民之友こくみんのとも』を発行はっこうし、平民的欧化主義へいみんてきおうかしゅぎとなえた。個人こじん自由じゆう平等びょうどう前提ぜんていとしたうえでの西洋文化せいようぶんか摂取せっしゅ主張しゅちょうした。一方いっぽう、1888(明治めいじ21)年、三宅雪嶺みやけせつれい(1860-1945)を筆頭ひっとうとする政教社せいきょうしゃからは、機関誌きかんし日本人にほんじん」が発刊はっかんされ、その翌年よくねん陸羯南くがかつなん(1857-1907)を中心ちゅうしん国民主義こくみんしゅぎ機関新聞きかんしんぶん日本にほん」を発行はっこうされた。かれらは西洋文化せいようぶんか無批判むひはん模倣もほうすることに反対はんたいし、日本固有にほんこゆう伝統でんとうなかに「しんぜん」という価値かち基準きじゅん追求ついきゅうしようとした。

 これらの国民主義こくみんしゅぎ国粋主義者こくすいしゅぎしゃは「国民精神こくみんせいしん回復蕩揚かいふくとうよう」と「国民団結こくみんだんけつ鞏固きょうこ」をびかけ、西洋文明せいようぶんめい摂取せっしゅ批判的ひはんてき態度たいどった。かれらは、外来がいらい文化ぶんか一方的いっぽうてき排除はいじょしようとしたのでなく、東西文化とうざいぶんか並存へいそん目指めざしたのである。たとえば、政治体制せいじたいせい改革かいかくにおいては、従来じゅうらい国家主義こっかしゅぎ西洋せいよう個人主義こじんしゅぎ両立りょうりつさせるかたちでイギリスのような立憲君りっけんくん

— p.152 —

学習ポイント
  1. 西洋文化せいようぶんか受容じゅよう
  2. 反体制はんたいせい運動うんどう
  3. 新聞しんぶん誕生たんじょう発展はってん
  4. 近代文学きんだいぶんがく展開てんかい
  5. 新渡戸稲造にとべいなぞう岡倉天心おかくらてんしん日本文化論にほんぶんかろん

しゅとなえられた。また、ヨーロッパの文学ぶんがく注目ちゅうもくされるとともに、元禄時代げんろくじだい文学ぶんがく再評価さいひょうかされるという当時とうじ文壇ぶんだんうごきもこうした時代じだい風潮ふうちょう反映はんえいしているとえる。1890(明治めいじ23)年に発布はっぷされた『教育勅語きょういくちょくご』(日本にほん教育きょういく基本方針きほんほうしんしめした明治天皇めいじてんのう勅語ちょくご)にも、「忠君ちゅうくん」という封建倫理ほうけんりんりと「愛国あいこく」という近代倫理きんだいりんりとが併記へいきされている。これは伝統的でんとうてきな「尊王そんのう」の思想しそう西洋せいよう近代的きんだいてき愛国心あいこくしんくわえたものである。

 ただし、この時点じてん東西文化とうざいぶんか要素ようそたん並存へいそんしていただけで、まだ有機的ゆうきてき関連かんれんづけられていなかった。また、国民こくみん立場たちばっているはずのこれらの思想しそうは、日清戦争にっしんせんそう(1894-95)を契機けいきに、政府せいふ批判ひはんしなくなり、次第しだい国家主義こっかしゅぎ同化どうかされていった。

(二)家制国家かせいこっか

 明治日本めいじにほん諸制度しょせいどにおける東西文化とうざいぶんか本格的ほんかくてき融合ゆうごうは、明治めいじ20年代ねんだい後半こうはん民法編纂みんぽうへんさんともなう「家制国家かせいこっか」の成立せいりつさいこころみられた。「個人こじん」を本位ほんいとするヨーロッパの民法みんぽうれるにあたり、「国家こっか」あるいは「いえ」を主位しゅいとする日本にほん従来じゅうらい制度せいどをどこまで維持いじするかが課題かだいとなっていた。

穂積八束ほづみやつか 当時とうじ国民主義者こくみんしゅぎしゃは「国民的統一こくみんてきとういつ」の強化きょうか、および「国家的個性こっかてきこせい」の回復かいふくとなえていた。民法みんぽう編纂へんさん参与さんよした穂積八束ほづみやつか(1860-1912)がそれに呼応こおうするかたちで、個人こじん本位ほんい契約けいやく自由じゆうゆる財産編ざいさんへん規定きていを、貧富ひんぷ格差かくさ労資ろうし対立たいりつをもたらすとして、国家的精神こっかてきせいしんをもっとれるべきだと主張しゅちょうした。そして、身分編みぶんへんについても夫婦ふうふ兄弟きょうだい個人こじん関係かんけいとするヨーロッパの制度せいどよりも、いえ本位ほんいとし

— p.153 —

親族しんぞく家制関係かせいかんけいとらえる従来じゅうらい立場たちばたもつべきだと提言ていげんした。結局けっきょく身分編みぶんへんについてしかその提言ていげんれられなかった。1898(明治めいじ31)年に公布こうふされた『明治民法めいじみんぽう』には、個人主義こじんしゅぎ自由主義的じゆうしゅぎてき財産編ざいさんへんと、家制主義かせいしゅぎ封建主義的ほうけんしゅぎてき身分編みぶんへんとが共存きょうそんすることになっている。このような混在こんざい状態じょうたいでなく、財産編ざいさんへん規定きてい身分編みぶんへん規定きていうえにはじめておこなわれるという、たがいに矛盾むじゅんしながらかかわっている仕組しくみとなっていた。この二重構造にじゅうこうぞうによって成立せいりつした「家制国家かせいこっか」の制度せいどこそ、伝統的でんとうてき価値観かちかん近代的きんだいてき資本主義しほんしゅぎとの融合ゆうごう象徴しょうちょうしていよう。

第二節だいにせつ 反体制はんたいせいうご

(一)個人主義こじんしゅぎ

 徳富蘇峰とくとみそほう平民主義へいみんしゅぎとなえるにさいし、すでに「個人こじん」や「社会しゃかい」の問題もんだいげたが、当時とうじたん観念的かんねんてきなものとしてなされていた。日清戦争後にっしんせんそうご西洋せいよう帝国主義ていこくしゅぎ重圧じゅうあつ日本にほん資本主義しほんしゅぎ発達はったつによって、その対立概念たいりつがいねんとして個人主義こじんしゅぎ社会主義しゃかいしゅぎがようやく現実味げんじつみって台頭たいとうし、当時とうじ主流しゅりゅうとなっていた家族国家主義かぞくこっかしゅぎ対抗たいこう姿すがたしめすようになった。

高山樗牛たかやまちょぎゅう与謝野晶子よさのあきこ まず、個人主義こじんしゅぎについては、高山樗牛たかやまちょぎゅう(1871-1902)が雑誌ざっし太陽たいよう』で日本主義にほんしゅぎとなえて列強れっきょう帝国主義ていこくしゅぎ対抗たいこうするとともに、1901(明治めいじ34)年に「文明批評者ぶんめいひひょうしゃとしての文学者ぶんがくしゃ」でニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900、ドイツの哲学者てつがくしゃりゅう個人主義こじんしゅぎ超人主義ちょうじんしゅぎき、また「美的生活びてきせいかつろんず」で「人間本然にんげんほんねん要求ようきゅう」にもとづく個人主義こじんしゅぎとなえ、自我じが意識いしき本能ほんのう方向ほうこう発展はってんさせた。さらに日蓮上人にちれんしょうにん(1222-82、鎌倉時代かまくらじだいそう日蓮宗にちれんしゅう開祖かいそ)を「国家こっかをも犠牲ぎせいとする偉大いだいなるエゴイスト」となすように、国家こっかよりも自我じが優先ゆうせんさせることをほのめかした。ほかにも女性歌人じょせいかじん与謝野晶子よさのあきこ(1878-1942)が1900(明治めいじ33)年に雑誌ざっし明星みょうじょう』(短歌たんか革新かくしん

— p.154 —

目標もくひょう)を刊行かんこうして浪漫主義的ろうまんしゅぎてきうた数多かずおおみ、自由恋愛じゆうれんあい主張しゅちょうして家制国家かせいこっか倫理りんり挑戦ちょうせんした。

 日露戦争にちろせんそう(1904-05)ののち政府せいふ当初とうしょ民法みんぽうれた家制国家かせいこっか理念りねんを、教育きょういくつうじてひろ国民全体こくみんぜんたい浸透しんとうさせようとした。東京帝国大学とうきょうていこくだいがく教授きょうじゅ井上哲次郎いのうえてつじろう(1856-1944)も1911(明治めいじ44)年に『国民道徳論こくみんどうとくろん』をいて家制国家かせいこっか理念りねん宣伝せんでんした。しかし、これによって個人主義こじんしゅぎ思想しそう一層いっそう国家こっかさからおうとするようになった、後述こうじゅつするように、個人こじんいえとの葛藤かっとうや、個人こじん愛欲あいよくをテーマとする自然主義文学しぜんしゅぎぶんがくもこの時期じき個人主義こじんしゅぎれいである。ただし、自然主義しぜんしゅぎ思想しそう反抗精神はんこうせいしんっていても、積極的せっきょくてき行動こうどう国家こっか対抗たいこうしているわけではなく、たん国家こっかからけていただけである。

(二)社会主義しゃかいしゅぎ

 一方いっぽう資本主義しほんしゅぎ発達はったつによる貧富ひんぷ拡大かくだいや、日露戦争後にちろせんそうご経済的けいざいてき不況ふきょうなどを背景はいけいに、社会主義しゃかいしゅぎ思想しそうこってきたが、国家こっかはげしい弾圧だんあつによってかえって暴走ぼうそうし、ついに無政府主義むせいふしゅぎまで発展はってんしてしまった。

幸徳秋水こうとくしゅうすい たとえば、1903(明治めいじ36)年に『平民新聞へいみんしんぶん』を発行はっこうして日露戦争にちろせんそう反対はんたいした幸徳秋水こうとくしゅうすい(1871-1911)が、のち入獄にゅうごく政党せいとうによる社会改造しゃかいかいぞう否定ひていして暴力革命ぼうりょくかくめい主張しゅちょうするようになった。1910(明治めいじ43)年、明治天皇めいじてんのう暗殺あんさつ計画けいかくしたという理由りゆうで、おおくの無政府主義者むせいふしゅぎしゃ逮捕たいほされ、幸徳秋水こうとくしゅうすいふくむ12めい死刑しけいにされた(大逆事件たいぎゃくじけん)。

(三)婦人運動ふじんうんどう

青踏社せいとうしゃ この時期じき無政府主義者むせいふしゅぎしゃ大杉栄おおすぎさかえ(1885-1923)と、青踏社せいとうしゃ伊藤野枝いとうのえ(1895-1923)・神近市子かみちかいちこ(1888-1981)とが交際こうさいしていた。青踏社せいとうしゃとは1911(明治めいじ44)年に平塚ひらつからいてう(らいちょう)(1886-1971)らによって結成けっせいされた婦人運動ふじんうんどう団体だんたいで、女性じょせい覚醒かくせいうながし、自由恋愛じゆうれんあい自由結婚じゆうけっこんとなえていた。そのメンバーたちも「あたらしいおんな

— p.155 —

ばれていた。この恋愛事件れんあいじけんは、両者りょうしゃとも国家こっかいえという体制たいせい反抗はんこうするものという意味いみで、まさに時代じだい象徴しょうちょうする出来事できごとであった。

 そののち平塚ひらつからいてう・市川房枝いちかわふさえ(1893-1981)らによって新婦人協会しんふじんきょうかい(1920)が設立せつりつされ、男女同権だんじょどうけん女性じょせい権利擁護けんりようごんだ。市川房枝いちかわふさえらはさらに女性じょせい参政権さんせいけん獲得かくとくした。一方いっぽう山川菊栄やまかわきくえ(1890-1980)・伊藤野枝いとうのえらによって最初さいしょ女性社会主義じょせいしゃかいしゅぎ団体だんたいである赤瀾会せきらんかい(1921)も結成けっせいされたが、政府せいふ弾圧だんあつけて一年いちねん足らずで消滅しょうめつした。

第三節だいさんせつ ジャーナリズムの発達はったつ展開てんかい

(一)御用新聞ごようしんぶんから政党機関紙せいとうきかんし

御用新聞ごようしんぶん 江戸時代えどじだい瓦版かわらばんつづき、明治初年めいじしょねんにも旧幕府時代きゅうばくふじだいの『中外新聞ちゅうがいしんぶん』や明治政府めいじせいふの『太政官日誌だじょうかんにっし』などがあったが、1870(明治めいじ3)年に創刊そうかんされた『横浜毎日新聞よこはままいにちしんぶん』が民間みんかんによる最初さいしょ日刊紙にっかんしである。そののち、1872(明治めいじ5)年の『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』をはじめ、新聞しんぶん次々つぎつぎ発刊はっかんされていったが、そのおおくは政府せいふ支援しえんけていた、いわゆる御用新聞ごようしんぶんであった。政府せいふからの情報じょうほう民衆みんしゅうつたえるなど文明開化ぶんめいかいか推進すいしんという役割やくわりになっていたが、読者どくしゃ新聞しんぶんへの関心かんしん一向いっこうたかまらなかった。

反政府はんせいふ新聞しんぶん 1874(明治めいじ7)年に御用新聞ごようしんぶんだったはずの『日新真事誌にっしんしんじし』に政府せいふ専制せんせい攻撃こうげきする板垣退助いたがきたいすけ民撰議員設立建白書みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ掲載けいさいされた。これをきっかけに、各紙かくし反政府はんせいふ記事きじせるようになり、読者どくしゃにも歓迎かんげいされた。そのうち『郵便報知新聞ゆうびんほうちしんぶん』のような反政府論はんせいふろんかかげるメディアまであらわれた。これにたいして政府せいふは1875(明治めいじ8)年に新聞紙条例しんぶんしじょうれいなどをさだめ、記者きしゃ逮捕たいほしたり、新聞しんぶん発禁処分はっきんしょぶんにしたりして弾圧だんあつはじめたが、西南戦争せいなんせんそう(1877、西郷隆盛さいごうたかもりかしらとする不満ふまん

— p.156 —

ぞくによる武力反乱ぶりょくはんらん)ののち自由民権運動じゆうみんけんうんどうたかまるにともない、政党せいとう主要しゅよう新聞紙しんぶんし機関紙きかんしにしてその理念りねん宣伝せんでんするようになった。自由党系じゆうとうけいの『自由新聞じゆうしんぶん』や改進党系かいしんとうけいの『郵便報知新聞ゆうびんほうちしんぶん』などがそれであった。

 1881(明治めいじ14)年の北海道官有物払ほっかいどうかんゆうぶつはら事件じけん政府批判せいふひはん世論せろん沸騰ふっとうしたことをけ、政府せいふ新聞紙しんぶんしまりを一層いっそうつよめるとともに、政党幹部せいとうかんぶ買収ばいしゅうしたり、仲違なかたがいさせたりして各政党機関紙かくせいとうきかんし廃刊はいかんんだ。

(二)全国紙ぜんこくし登場とうじょう

 なお、明治期めいじき新聞しんぶんのうち、政論せいろんなどを中心ちゅうしんかかげるものは「大新聞おおしんぶん」、興味本位きょうみほんい記事きじ小説しょうせつなどをせるものは「小新聞こしんぶん」、とそれぞればれていた。明治めいじ20年代ねんだいになると、両者りょうしゃ性格せいかくわせながらニュース報道ほうどう重点じゅうてんいたものがあらわれ、全国的ぜんこくてき商業新聞しょうぎょうしんぶん発展はってんしていった。新聞界しんぶんかい政党離せいとうばなれもすすみ、「不偏不党ふへんふとう」を宣言せんげんするようになった。

 一方いっぽう、『日本にほん』や『国民新聞こくみんしんぶん』、『万朝報よろずちょうほう』など一定いってい理念りねんかかげた独立系新聞どくりつけいしんぶんあらわれた。たとえば、1892(明治めいじ25)年創刊そうかんの『万朝報よろずちょうほう』は様々さまざま社会問題しゃかいもんだい暴露ばくろすることでおおくの知識人階層ちしきじんかいそう読者どくしゃた。また、日露戦争中にちろせんそうちゅう反戦はんせん主張しゅちょうつづけた『平民新聞へいみんしんぶん』(前出まえしゅつ)もこうした独立系新聞どくりつけいしんぶんながれのなかから出来できたものである。

 明治末期めいじまっきになると、戦争せんそう勃興ぼっこうともない、一部いちぶ新聞しんぶん夕刊ゆうかん発行はっこうし、さらに号外ごうがいすようになった。こうしてニュースの報道ほうどうしゅとする新聞しんぶん有力ゆうりょくとなり、東京とうきょうでは『時事新報じじしんぽう』、『報知新聞ほうちしんぶん』、『東京朝日新聞とうきょうあさひしんぶん』が、大阪おおさかでは『大阪朝日新聞おおさかあさひしんぶん』、『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』がそれぞれ地位ちいかためた。そのうち、『朝日あさひ』『毎日まいにち』の大阪系おおさかけい2は、のち全国紙ぜんこくしにまで発展はってんしていった。

— p.157 —

第四節だいよんせつ 明治後期めいじこうき文学ぶんがく

(一)浪漫主義ろうまんしゅぎ

 文学界ぶんがくかい 浪漫主義ろうまんしゅぎ十八世紀末じゅうはっせいきまつのヨーロッパできた文学思潮ぶんがくしちょうで、個性こせい尊重そんちょう自我じが解放かいほう特徴とくちょうとする。1893(明治めいじ26)年に創刊そうかんされた雑誌ざっし文学界ぶんがくかい』の同人どうじんたちを中心ちゅうしんに、日本にほん浪漫主義ろうまんしゅぎ展開てんかいしていった。かれらは、文学ぶんがく自立じりつ主張しゅちょうするとともに硯友社けんゆうしゃ卑俗的ひぞくてき写実主義しゃじつしゅぎ批判ひはんした。「厭世詩家えんせいしか女性じょせい」(1892)という評論ひょうろん恋愛れんあい神聖性しんせいせい主張しゅちょうした北村透谷きたむらとうこく(1868-94)が指導者しどうしゃとなり、その影響えいきょうけて島崎藤村しまざきとうそん(1872-1943)も新体詩集しんたいししゅう若菜集わかなしゅう』(1897)を発表はっぴょうして青春せいしゅんこい苦悩くのうよろこびをうたげた。

 初期しょき森鴎外もりおうがい また、ドイツ留学りゅうがく体験たいけんもとづいてかれた、『舞姫まいひめ』(1890)をはじめとする森鴎外もりおうがい(1862-1922)の初期三部作しょきさんぶさくも、浪漫主義ろうまんしゅぎ先駆的せんくてき作品さくひんである。とく恋人こいびとてて帰国きこくする主人公しゅじんこう心中しんちゅう葛藤かっとうえがく「舞姫まいひめ」においては、二葉亭四迷ふたばていしめいの「浮雲うきぐも」とおなじように、人間にんげん願望がんぼうとそれをはば社会しゃかいとの矛盾むじゅん対立たいりつ問題もんだいげられている。封建的ほうけんてきなものからの解放かいほう、および近代的きんだいてき自我じが確立かくりつという明治めいじ知識人ちしきじんかかえる課題かだいりにされるかたちで、官僚かんりょういえという社会体制しゃかいたいせいへの批判ひはんめられている。

 明星みょうじょう そののち浪漫主義ろうまんしゅぎ与謝野鉄幹よさのてっかん(1873-1935)・与謝野晶子よさのあきこ主宰しゅさいする雑誌ざっし明星みょうじょう』の同人どうじんらによってがれることになった。とく与謝野晶子よさのあきこ詩集ししゅう『みだれかみ』(1901)で女性じょせい恋愛感情れんあいかんじょう率直そっちょくかつ大胆だいたんうたげ、世間せけん注目ちゅうもくびた。また、日露戦争にちろせんそうおとうとのために、「きみにたまうことなかれ」(『明星みょうじょう』1904ねん9がつごう)といううたつくっており、非戦論者ひせんろんしゃとしてもられる。

 なお、自我じが尊重そんちょう本能ほんのう満足まんぞくかかげる高山樗牛たかやまちょぎゅう個人主義こじんしゅぎ前述ぜんじゅつ)も、浪漫主義ろうまんしゅぎ側面そくめんわせている。浪漫主義ろうまんしゅぎ作家さっかとしてはほかに、『高野聖こうやひじり』(1900)で神秘的しんぴてき幻想的げんそうてき作風さくふうしめ泉鏡花いずみきょうか

— p.158 —

(1873-1939)や、『武蔵野むさしの』(1901)をはじめとする抒情的じょじょうてき短編集たんぺんしゅういた初期しょき国木田独歩くにきだどっぽ(1871-1908)などがげられる。

(二)自然主義しぜんしゅぎ

 ヨーロッパでは十九世紀末じゅうきゅうせいきまつ浪漫主義ろうまんしゅぎへのはげしい反動はんどうとして、ゾラ(Emile Zola, 1840-1902、フランスの小説家しょうせつか)によって自然主義しぜんしゅぎとなえられ、科学的かがくてき現実解釈げんじつかいしゃくによる自我じが否定ひてい主張しゅちょうされている。日本にほんではゾラの影響えいきょうふかけながら、自我じが追求ついきゅうという浪漫主義ろうまんしゅぎ課題かだい継承けいしょうするかたち自然主義しぜんしゅぎ展開てんかいしていった。たとえば、小杉天外こすぎてんがい(1865-1952)の『はやりうた』(1901)や、永井荷風ながいかふう(1879-1959)の『地獄じごくはな』(1902)などが日本にほん自然主義文学しぜんしゅぎぶんがく先駆せんくで、ゾラにならって遺伝いでん環境かんきょう支配しはいされる人間にんげん運命うんめいえがこうとした。

 島崎藤村しまざきとうそん ただし、日本にほんにおける自然主義しぜんしゅぎ発展はってん方向付ほうこうづけたのは、自我じが問題もんだいげる島崎藤村しまざきとうそん田山花袋たやまかたい(1871-1930)であった。浪漫主義ろうまんしゅぎ詩人しじんとして出発しゅっぱつした藤村とうそんは、1906(明治めいじ39)年に自然主義しぜんしゅぎ小説しょうせつ破戒はかい」を発表はっぴょうした。日清戦争後にっしんせんそうご社会しゃかい矛盾むじゅん批判ひはんする当時とうじ文壇ぶんだん傾向けいこうおなじく、藤村とうそん部落民ぶらくみん差別問題さべつもんだいげたが、主人公しゅじんこう作者さくしゃ自身が投影とうえいされている。近代的自我きんだいてきじが表出ひょうしゅつ課題かだい社会しゃかい問題もんだいむすびつけているのが特徴とくちょうであるが、そののち作品さくひんはる」(1908)などでは心情しんじょうわり、自伝的じでんてき方向ほうこうをたどり、告白小説こくはくしょうせつへと発展はってんしていった。

 田山花袋たやまかたい 藤村とうそんおなじように、田山花袋たやまかたい当初とうしょ浪漫主義的ろうまんしゅぎてき作家さっかであったが、ゾラの影響えいきょう自然主義しぜんしゅぎてんじた。1907(明治めいじ40)年に発表はっぴょうした「蒲団ふとん」では、中年作家ちゅうねんさっか女弟子おんなでしせるひそかな恋慕れんぼ露骨ろこつえがいているが、作者さくしゃ自身が主人公しゅじんこうのモデルとなっており、私小説ししょうせつ端緒たんしょとなった。そののち一切いっさい主観しゅかんはいして対象たいしょう事実じじつそのまま再現さいげんしようとする「平面描写論へいめんびょうしゃろん」をいて「田舎教師いなかきょうし」(1909)などをいた。

— p.159 —

 このように徹底てっていした客観描写きゃっかんびょうしゃ自己告白じここくはく傾向けいこうくわえ、さらに無理想むりそう無解決むかいけつという虚無的きょむてき人生観じんせいかんなども日本自然主義にほんしぜんしゅぎ基本的性格きほんてきせいかくとなった。徳田秋声とくだしゅうせい(1871-1943)・岩野泡鳴いわのほうめい(1873-1920)・正宗白鳥まさむねはくちょう(1879-1962)らほかの自然主義作家しぜんしゅぎさっかにも共通きょうつうしてられる特徴とくちょうである。

(三)夏目漱石なつめそうせき森鴎外もりおうがい

 明治後期めいじこうき自然主義文学しぜんしゅぎぶんがく風潮ふうちょうとは対照的たいしょうてきに、理想主義的りそうしゅぎてき人生観じんせいかんかかげて倫理的りんりてき理知的りちてき作品さくひんいていったのが、夏目漱石なつめそうせき(1867-1916)と森鴎外もりおうがいである。

 夏目漱石なつめそうせき 明治期めいじき世相せそう風刺ふうししたユーモア小説しょうせつ吾輩わがはいねこである』(1905)で出発しゅっぱつした漱石そうせきは、近代人きんだいじん自我じが不安ふあん探求たんきゅうしようとした。『三四郎さんしろう』(1908)をはじめとする前期ぜんき三部作さんぶさくて、『こころ』(1914)でめくくる後期こうき三部作さんぶさくでは近代人きんだいじんのエゴイズムをさらけした。未完作みかんさく明暗めいあん』(1915)では「則天去私そくてんきょし」という調和的ちょうわてき境地きょうち目指めざした。

 森鴎外もりおうがい 一方いっぽう浪漫主義ろうまんしゅぎから出発しゅっぱつした鴎外おうがいは、明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょともな乃木希典のぎまれすけ大将たいしょう殉死じゅんし契機けいきに、『興津弥五右衛門こうつやごえもん遺書いしょ』(1911)をはじめとする歴史小説れきししょうせつてんじた。また、『高瀬舟たかせぶね』(1915)などでは過去かこ事件じけん現在げんざい社会しゃかい問題もんだい関連付かんれんづけるとともに、「歴史其儘れきしそのまま」と「歴史離れきしばなれ」とのあいださぐつづけたが、晩年ばんねんには事実じじつ淡々たんたんつづる「史伝しでん」の世界せかいはいっていった。

 二人ふたり文芸活動ぶんげいかつどうは、西洋せいよう知性ちせい東洋とうよう伝統でんとうとの対立たいりつ調和ちょうわという、日本近代化にほんきんだいかおおきな課題かだいかかわわるところもおおく、注目ちゅうもくあたいする。

第五節だいごせつ 明治期めいじき日本文化論にほんぶんかろん

(一)新渡戸稲造にとべいなぞう

 明治維新めいじいしん直後ちょくご日本にほん伝統文化でんとうぶんか文明開化ぶんめいかいかなみながされ、ほとんど注目ちゅうもくけていなかった。明治中後期めいじちゅうこうきになると、むやみな欧化おうかへの

— p.160 —

反省はんせいから、ことさら西洋文化せいようぶんか造詣ぞうけいたか知識人ちしきじんたちによって、日本文化にほんぶんか見直みなおされ、世界的せかいてき視野しやから再評価さいひょうかされる機運きうんこった。とく新渡戸稲造にとべいなぞう(1862-1933)と岡倉天心おかくらてんしんによって、これらの伝統文化でんとうぶんか英語えいごかたられ、直接西洋ちょくせつせいよう発信はっしんされることとなった。

 武士道ぶしどう アメリカ・ドイツ留学りゅうがく経験けいけんした新渡戸稲造にとべいなぞうは、1899(明治めいじ32)年に欧米おうべい読者どくしゃ対象たいしょう英語えいごで『武士道ぶしどう』を刊行かんこうした。武士道ぶしどう定義ていぎをはじめ、その起源きげんおも徳目とくもく切腹せっぷくないし女性じょせいとのかかわわりなど、幅広はばひろろんじられている。

 日本にほん代表だいひょうする伝統文化でんとうぶんかとしてほかならない武士道ぶしどうげたのは、西洋せいようのキリストきょう相当そうとうするからである。キリストきょうとの比較ひかくさいして仏教ぶっきょう儒教じゅきょうよりも武士道ぶしどうのほうが適切てきせつなのは、新渡戸にとべによると、西洋せいよう社会しゃかいにおけるキリストきょう道徳どうとくおなじように、武士道ぶしどう日本社会にほんしゃかい秩序ちつじょささえる道徳的規範どうとくてききはんとしてはたらいているからだという。この意味いみで、明治維新後めいじいしんごのいわゆる「天皇制てんのうせい」をささえたのも、日清戦争にっしんせんそうときの「挙国一致きょこくいっち」を裏付うらづけたのも、武士道ぶしどう精神せいしんであった。

 このような武士道解釈ぶしどうかいしゃくは、日清戦争にっしんせんそう以来日本にほんへの関心かんしんたかまっていく欧米社会おうべいしゃかいではおおきな反響はんきょうがあったようである。当時とうじ、アメリカの大統領だいとうりょうルーズベルト(Theodore D.Roosevelt, 1858-1919)まで武士道ぶしどう尊敬そんけいしていたという。

(二)岡倉天心おかくらてんしん

 岡倉天心おかくらてんしん日本にほん伝統美術でんとうびじゅつ復興ふっこう尽力じんりょくしたことは前述ぜんじゅつしたとおりである。新渡戸稲造にとべいなぞうおなじように、天心てんしん欧米社会おうべいしゃかいかって、英語えいご日本にほん文化ぶんか紹介しょうかいしている。おも著作ちょさくに『東洋とうよう理想りそう』(1903)や『ちゃほん』(1906)などがあり、いずれも近代西洋きんだいせいよう物質文明ぶっしつぶんめいたいして東洋とうよう伝統的でんとうてき精神文化せいしんぶんか優位ゆういかたるものである。

 東洋とうよう理想りそう まず、「アジアはひとつ」ではじまる『東洋とうよう理想りそう』では、中国ちゅうごくとインドの文明ぶんめいをはじめ、飛鳥時代あすかじだいから明治時代めいじじだいまでの日本にほん文化ぶんか一通ひととお概説がいせつした。結論けつろんとしては分業化ぶんぎょうか機械化きかいかすす近代きんだい

— p.161 —

社会しゃかいでは、手作てづくりの作業さぎょうとおしてしかられない芸術的げいじゅつてき精神的せいしんてきよろこびをあじわうことができないとし、東洋とうよう伝統文化でんとうぶんか復興ふっこう主張しゅちょうしている。

 ちゃほん ちゃじく様々さまざま話題わだいしていく『ちゃほん』であるが、とく注目ちゅうもくすべきなのは、日清にっしん日露戦争にちろせんそうにおける日本にほん戦闘精神せんとうせいしんをもって日本にほん文化ぶんかようとするかんがえを、侵略主義的しんりゃくしゅぎてき発想はっそうによるものとして批判ひはんし、ちゃのうちに見出みいだせる平和的へいわてき境地きょうちこそ日本文化にほんぶんか真髄しんずいだとべているところである。あきらかに新渡戸稲造にとべいなぞうの『武士道ぶしどう』にたいする発言はつげんで、それとまった対照的たいしょうてき日本文化にほんぶんか提示ていじでもあった。

 ただし、『東洋とうよう理想りそう冒頭ぼうとうの「アジアはひとつ」は、太平洋戦争たいへいようせんそうさい大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけん宣伝せんでんにさえ利用りようされ、天心てんしん思想しそうかならずしも正確せいかく理解りかいされているわけではなかった。

文責ぶんせき黄智暉こうちき

— p.162 —

確認かくにんしてみよう

一、つぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

  1. 徳富蘇峰とくとみそほう民友社みんゆうしゃ設立せつりつし、雑誌ざっし(a.『日本人にほんじん』 b.『国民之友こくみんのとも』 c.『日本にほん』)を発行はっこうし、平民的欧化主義へいみんてきおうかしゅぎとなえた。
  2. (a.新婦人協会しんふじんきょうかい b.青踏社せいとうしゃ c.赤瀾会せきらんかい)とは1911年に平塚ひらつからいてうによって結成けっせいされた婦人運動ふじんうんどう団体だんたいで、女性じょせい覚醒かくせいうながし、自由恋愛じゆうれんあい自由結婚じゆうけっこんとなえていた。
  3. 1870年に創刊そうかんされた(a.『横浜毎日新聞よこはままいにちしんぶん』 b.『中外新聞ちゅうがいしんぶん』 c.『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』)が民間みんかんによる最初さいしょ日刊紙にっかんしである。
  4. 小杉天外こすぎてんがいの『はやりうた』や永井荷風ながいかふうの『地獄じごくはな』などが日本にほん自然主義文学しぜんしゅぎぶんがく先駆せんくで、ゾラにならって(a.権力けんりょく b.階級かいきゅう c.遺伝いでん)と環境かんきょう支配しはいされる人間にんげん運命うんめいえがこうとした。
  5. 夏目漱石なつめそうせきは(a.『青年せいねん』 b.『こころ』 c.『明暗めいあん』)でめくくる後期こうき三部作さんぶさく近代人きんだいじんのエゴイズムをさらけした。

二、つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

  1. 高山樗牛たかやまちょぎゅう雑誌ざっし太陽たいよう』で(  )をとなえて列強れっきょう帝国主義ていこくしゅぎ対抗たいこうしようとした。
  2. 与謝野晶子よさのあきこは1900年に雑誌ざっし明星みょうじょう』を刊行かんこうして浪漫主義ろうまんしゅぎ的なうたおおみ、(  )を主張しゅちょうして家制国家かせいこっか倫理りんり挑戦ちょうせんした。
  3. 1910年、明治天皇めいじてんのう暗殺あんさつ計画けいかくしたという理由りゆうで、おおくの無政府主義者むせいふしゅぎしゃ逮捕たいほされ、処刑しょけいされたことを(  )という。
  4. ドイツ留学りゅうがく体験たいけんもとづいてかれた、(  )をはじめとする森鴎外もりおうがい初期三部作しょきさんぶさく浪漫主義ろうまんしゅぎ先駆せんく的な作品さくひんである。
  5. 新渡戸稲造にとべいなぞう日本にほん代表だいひょうする伝統文化でんとうぶんかとして武士道ぶしどうげたのは、西洋せいようの(  )に相当そうとうするからである。

— p.163 —

三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. 1898年に公布こうふされた『明治民法めいじみんぽう』の特徴とくちょうについて説明せつめいしなさい。
  2. 無政府主義者むせいふしゅぎしゃした明治後期めいじこうき社会的背景しゃかいてきはいけいについてべなさい。
  3. 明治期めいじき大新聞おおしんぶん小新聞こしんぶんとではどうちがうのか、説明せつめいしなさい。
  4. ヨーロッパの自然主義しぜんしゅぎと、日本にほん自然主義しぜんしゅぎとのちがいについてべなさい。
  5. 新渡戸稲造にとべいなぞう日本文化論にほんぶんかろんと、岡倉天心おかくらてんしん日本文化論にほんぶんかろんとの根本的こんぽんてき相違点そういてんなになのか、説明せつめいしなさい。

参考文献さんこうぶんけん

日本史研究会編『講座日本文化史』、三一書房、1971年
石田一良編『日本文化史概論』、吉川弘文館、1978年
久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997年
五味文彦ほか編『詳説日本史研究』、山川出版社、1998年
中澤伸弘『図解雑学日本の文化』、ナツメ社、2002年
小森陽一ほか編『近代日本の文化史』、岩波書店、2002年
大久保喬樹『日本文化論の系譜』、中央公論新社、2003年
岸俊男ほか編『週刊朝日百科日本の歴史』、朝日新聞社、2004年
遠藤嘉基、池垣武郎『注解日本文学史』、中央図書、2005年

— p.164 —